海辺へ向かうと、ルイジアナは急に静かになる
ニューオーリンズの密度を身体に入れたあとで海辺へ向かうと、州の印象は一変する。音の数が減り、視界が広がり、風景が水平にほどけていく。だが、それは空虚になるという意味ではない。むしろ、見えるものの一つひとつが濃くなるのだ。道路脇の草、遠くの水面、電柱の線、停泊した船の傾き。都市では背景に退いていた要素が、海辺では主役になってくる。
Hiroはその変化をとても好んだ。ルイジアナという州が、祝祭と喧騒だけではないことを、海辺は静かに教えてくれるからだ。湿地は広く、潮は遅く、道はどこまでも低い土地を切り裂くように伸びる。そこに小さなシュリンプボートが現れると、その存在感は都市の高層ビルよりも強い。なぜなら、その船は風景の装飾ではなく、生活の一部だからである。
ルイジアナの海岸部では、景色と仕事が分離していない。海辺の美しさは、働くことによって磨かれている。漁船の錆びた金具、ロープ、マスト、網、泥の匂い。そうしたものがすべて風景の中に正しく収まっていて、見ているうちに、贅沢とは必ずしも磨き上げられたものだけを意味しないのだとわかってくる。真に土地に根ざした美しさは、むしろ実用品の中にある。
シュリンプボートは、ルイジアナの海辺の肖像である
海辺でHiroの目を最も強く引いたのは、やはりエビ漁船だった。派手な遊覧船ではない。大きなクルーズでもない。小さく、実務的で、少し無骨で、しかし奇妙な品がある。甲板には仕事の痕跡が残り、色は潮風に洗われ、船名にはそれぞれの人生が滲む。船というより、ひとつの家業が水に浮いているように見える。
ルイジアナでエビ漁船を見ると、食卓の背後にあるものまで想像できる。レストランで出てくる一皿の海老は、ここで働く人々の時間と天候と潮に支えられている。その距離の短さが、この州の食文化を特別にしているのだろう。Hiroは水路沿いに繋がれた船を見ながら、ニューオーリンズで味わった料理が、急に立体感を持ちはじめるのを感じた。